2019年11月19日号。<逃亡の旅 第26回 ~甲子園に逃げる~:花房観音>
おはようございます。ヨロンです。
昨日の午後大阪に来て、これから帰ります。屋外での撮影とライブ配信の手伝いだったのですが、自分が強烈な雨男だったことを忘れていました。一昨日までは曇りくらいの予報だったのに、やはり雨。
なんとか配信は無事に終え、本来であればどこか良い感じの飲み屋を教えてもらってゆっくり飲むところ、疲れてしまったので、コンビニで買ったオリオンビールをホテルで飲みながら、観音さんから届いた原稿を読んでいました。
藤井寺球場は、近鉄のホームグラウンドでした。野球少年だった私は、確か両翼の距離まで覚えていたはず。懐かしい名前です。
そして甲子園球場。
初めて行ったのは万博のとき。もう50年くらい前になるんですね。阪神の投手は村山実。そして王がホームランを打って勝つという、ジャイアンツの王貞治ファンの少年にとっては最高の試合でした。
1年半前には、友人の石井登志郎さんの動画を撮るために西宮に行き、甲子園球場にも足を運びました。彼は今、西宮市長として日々奮闘しています。そういえば、このメールも読んでくれているんだった。
今日の観音さんのコラムは、いつもと雰囲気が違う。
なぜか桑田のアナウンスのところで目頭が熱くなるのは、大阪で読んでいるからでしょうか。
桑田と清原というふたりの天才は、順風とは言えない人生を歩んできましたが、最近の報道を見ていると、やっとこれから自分と向き合える穏やかな人生を送れるのではないか。
若い頃が激しすぎたのか……。
一度大きくしくじっても、自分に負けなかった人が、最後には納得する人生を送ることができる。
なんて偉そうなことを書いてみましたが、自分はどうなんだろう。大きなしくじりはないけれど、納得した人生だろうか。
さて、これから東京に戻って、選挙ドットコムの2回目の収録です。内閣支持率の低下、ヤフーとLINEの経営統合正式発表など、大きなニュースもあります。
そして2週間後には、また大阪や!
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逃亡の旅 第26回 ~甲子園に逃げる~
花房観音(小説家)
空が広い、まずそう思った。
芝生の緑がまぶしく、空の青と共に鮮やかで、美しい。
生まれてはじめて足を踏みいれた球場は、想像以上に広くて、ほぼ満員の客席から溢れる熱気に圧倒された。
私は中学生だった。夏休みを利用して、大阪の天王寺で玩具問屋を営んでいる祖父の弟夫婦の家に世話になっていた。「大阪のおばちゃん」と私が呼んでいた、祖父の弟の妻は、料理上手の気がきく人で、兵庫北部の田舎から出たことのない私を連れて電車に乗り、西宮に来た。
車の移動しかできない地域に住んでいたので、電車そのものが新鮮だった。5分、10分毎に電車が来るので時刻表を確認しなくていいことも、JR以外の「私鉄」の存在も驚きだった。
真夏だったはずなのに、暑かったという記憶はない。ただ、球場から見た空が広くて青かったことが強く印象に残っている。
大阪のおばちゃんが私を連れていってくれたのは、甲子園球場だった。テレビでしか見たことのない蔦の絡まる球場では、夏の高校野球大会が開催されていた。
大阪代表は、PL学園。
野球をそれまでテレビでちゃんと見た記憶はない。両親も祖父母も、野球に関心がない家だった。ただ、「ドカベン」など、野球漫画はよく読んでいたのと、小学生のときにソフトボールをやっていたので、ルールをうっすら知っていたぐらいだ。
けれど生まれて初めて見る「生」の野球に私は圧倒されたのは、凄い選手がいたからだ。当時、甲子園を圧巻していたのは、PL学園のふたりの球児だった。ピッチャー桑田真澄、4番清原和博――日本中が、「KKコンビ」と呼ばれたこのふたりに沸き立っていった。
まさに私が見ているのは、KKコンビが出場していた試合だった。カキィーンと、球場中にバットが球に当たる音が響き、大きな放物線を描いた白球が外野席に放り込まれ、歓声が沸く。グランドから目が離せなくなった。
数日後、私は今度はひとりで甲子園に行った。もう一度、どうしても彼らが見たかった。試合終了後、球場を出て人混みにもまれながら、選手たちの出入り口に向かうと、やはりそこは人だかりができてきた。
みんな、私と同じで、近くでPL学園の選手たちを見たかったのだ。
バスが道路に横づけされ、しばらく待つと、前のほうから声があがる。選手たちが現れた。
列の中にいる清原和博は、すぐにわかった。ひときわ身体が大きかったからだ。選手たちは無言で列になり、小走りですぐバスに乗り込んだ。一番最後に、桑田真澄がいた。あんな小さな身体で投げ続け、ホームランを打つのかと驚いた。
それからはずっと、ふたりのことが気になっていた。清原が無念の涙を流し、桑田が世間から憎しみをかったあのドラフト会議も、複雑な気持ちで眺めていた。
球場に行く機会が出来たのは、それから数年後だ。知り合いの女の子が、「藤井寺球場の招待券、2枚もらったんだけど行きません? 近鉄対西武戦です」と声をかけてくれた。西武ライオンズ……といえば、清原がいる! そうして私は今は無き藤井寺球場へと足を運んだ。
私が知っているのは昼間の甲子園だけなので、ナイターで客席もまばらな、おっちゃんたちがビールを飲みながら観戦しているプロ野球の試合は、中学生の頃に見た甲子園とは別世界だが、それはそれで面白かった。
グラウンドには、西武ライオンズのユニフォームを着た清原がいた。ドラフトを経て、常勝軍団・西武に入団した清原は、一年目から活躍し、プロ野球界でも注目されるスターとなっていた。
清原もだが、あの頃の森祇晶監督率いる西武は、すさまじかった。3番秋山、4番清原、5番デストラーデ、工藤と渡辺久信、辻、伊藤勤、石毛……今年のパ・リーグの覇者であるホークスの監督が工藤、西武監督は辻、西武GMが渡辺久信、あの頃の常勝軍団のメンバーのほとんどが、現在でも指導者として球界にいることを考えると、改めて凄いチームだったと思う。
藤井寺球場で初めてプロ野球の試合を見て、西武ライオンズの強さを目の当たりにし、私はすっかり夢中になった。「週刊プレイボール」と「Number」を愛読し、ノンフィクションを読み漁り、ひとりで藤井寺に足を運ぶようになった。
スーパースター清原和博の姿を見るために。
一方で、ドラフト会議ですっかり悪役となった桑田は、その後も、当番日漏洩疑惑、女性スキャンダル、「投げる不動産屋」などと揶揄され叩かれ続けていた。それでも彼は、PL学園時代と変わらず、淡々と野球に打ち込み成績を残していた。その影には、どれほどの苦しみや葛藤、そして凄まじい努力があったのだろう。あの頃の桑田の置かれた状況を考えると、20代前半の若者の、その精神力の凄まじさに驚嘆する。
スターとなった清原も、時々女性との写真が週刊誌に載り、また豪快に飲み歩いている話も耳にした。
印象的だったのは、1987年の日本シリーズだ。西武勝利まであと一歩の9回表、ファーストを守る清原が泣き出した。驚いてショートの辻が清原に声をかける。サード石毛も、なんだという表情を見せている。自分を指名しなかった巨人、そして王監督に対する想いがこみ上げてしまったのだろう。
大舞台で「魅せる」清原は、日本中から愛されたスーパースターだった。
大学を中退し就職して球場から足は遠のいたけれど、テレビでは見続けていた。
30歳を過ぎて、実家に戻り就職した旅行会社の仕事で、久々に球場に行く機会が出来た。
阪神タイガースの能見篤志選手は、豊岡市出石の出身だ。親戚が後援会を作り、バスで甲子園に阪神の試合を見に行くのに、何度か同行した。その際に、ジャイアンツ時代の清原を見たことがある。
いつからこんな鈍重な動きをするようになってしまったのか。
ベンチから守備位置に着く際も、戻ってくるときも、清原だけは遠目からでもよくわかる。のっしのっしと重苦しい動きをするからだ。肉体改造に失敗して身体が大きくなり過ぎた、とも報道されていた。それ以上に、清原は人相が変わった。日本シリーズで泣いた「少年・清原」の面影はどこにもなかった。
桑田真澄はジャイアンツから大リーグに挑戦をし、パイレーツで選手生活を終えたあと、2007年に現役引退した。清原和博は西武ライオンズから、読売ジャイアンツ、オリックスバッファローズを経て2008年引退。ほぼ同時期にグラウンドから去った。
仰木彬監督により声をかけられ、オリックスのユニフォームを着た清原の引退は、球団により「男の花道」というサイトを作られ、当時、大阪の地下街にも大きくポスターが貼られていたのを覚えている。スーパースター清原に相応しい華やかな引退をという演出だった。それぐらい、清原は愛されていた。
引退して、清原の身体には、昇り龍が彫られた。解説の仕事をドタキャンしたり、早くから週刊誌でも覚せい剤疑惑、記者への暴力が報道されていた。
一方、桑田真澄は引退後、早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修士課程でスポーツ科学の修士を取得、修士論文では最優秀論文賞を受賞した。東京大学運動会硬式野球部の特別コーチや、日本野球機構「統一球問題における有識者による第三者調査・検証委員会」の特別アドバイザーも勤め、PL学園野球部OB会の会長にも就任した。また特別コーチを勤める東大の大学院総合文化研究科の大学院研究生に合格し、現在は生命環境科学系身体運動科学研究室にて研究を続け、ひたすら「野球」の道に生きている。
清原は、2016年に覚せい剤取締法違反にて現行犯逮捕された。疑惑が出てから、薬物摂取を否定してきた末の逮捕に、ファンや野球界の人たちから失望の声が溢れた。
彼は、日本中が沸いた、スーパースターのはずだったのに。
2018年に刊行された、「清原和博 告白」(文藝春秋)https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163908762 を読んで、嗚咽した。そこに描かれていたのは、ヒーローではなく、才能と肉体に恵まれながらも、心が弱いゆえに苦しみ続けた生身の人間の言葉だった。人は弱い生き物だ。様々な鎧を纏って心身を守り、生きている。
彼はあまりにも無防備だった。愚かで弱い、と言ってしまうのは、簡単だ。けれど私は、彼の弱さが身に染みた。我々凡人には想像もつかないプレッシャーと制約のある生活の中で、どれだけ孤独におびえ続けていたのだろう。
そして「告白」の中では、彼が桑田真澄という人を、誰よりもその才を認めるからこそ意識し続け、羨望し、圧倒されていたことも書かれている。
人は、弱い。悲しいほどに、弱い。それは一年前、勝谷誠彦に死が忍び寄る姿を見て思い知らされた。アルコール依存症がどういうものであるか、知識として十分に知っていたであろうし、母親や友人たちが酒に呑まれ、周りの人が大変な目に合うのも目の当たりにしていたはずなのに、酒で死んだ。自らがアルコール依存症であるのを最期まで認めなかったのも、彼の弱さ故だ。小説を書くことを諦めきれないのに、書けなかったことも。
弱い人だった。だから死んだ。そのことが、悲しかった。
今月11/9、私は朝から西宮に向かった。甲子園に来るのは、10年ぶりだろうか。桑田と清原が引退してから、プロ野球への興味も薄れ、仕事以外で試合を見る機会も無かった。けれど今回、ここに来たのは、「マスターズ甲子園決勝にPL学園が大阪代表で出場」の記事を見たからだ。マスターズ甲子園は、かつての高校球児たちが野球を通じて交流し、次世代へとつなげていくために開催されている。
数々のプロ野球選手たちを世に出したPL学園硬式野球部は、暴力事件や制度の変更等により、2017年に廃部した。桑田真澄OB会長のもとで、野球部復活を願うかつての高校球児たちが大阪大会を勝ち抜いて、甲子園で戦うという。
どうしても、行きたかった。甲子園で、桑田真澄の投球を見たかった。内野席は無料で開放されると聞いて、足を運んだ。
PL学園の出番は第二試合だった。総合監督は、KKコンビを率いた中村順二さん、監督は清水哲さんだ。清水さんはKKコンビの一年先輩で、同志社大学に進学したが、試合中の事故の頚椎損傷により、首から下が動かず車椅子生活を続けている。
試合前に、PL学園野球部のOBたちがグランドに現れた。清水哲さんは電動車椅子で移動しながら、選手に指示をしている。試合がはじまり、途中、「4番ピッチャー桑田」がアナウンスされると、球場中から大歓声があがった。巨人時代と変わらぬ身体で、「1番」の背番号をつけた桑田真澄がマウンドにあがる。
「ピッチャー桑田くん――」
アナウンスは、かつてのように「桑田くん」と呼んだ。
PL学園の攻撃中は、三塁側内野席の応援団の「人文字」が展開され、精一杯声を張り上げている様子も見えた。この日のために、PL学園のOBたちが甲子園に訪れ、全国から集まった老若男女が、ひとつになって母校の応援をしている。球児たちだけではなく、彼らにとってもPL学園野球部は誇りなのだ。
4番バッターとしてバッターボックスに入った桑田真澄は二塁打、盗塁までも魅せてくれた。試合はPL学園の勝利で終わり、選手たちが三塁側の内野席の前に並び、観客に向かい礼をする。
多くの人が、思っていることだろう。
なぜ、ここに、清原がいないのか――。
薬物の依存症克服がどれだけ難しいのか、この数日前の田代まさし5度目の逮捕で思い知らされたあとだった。
清原には、いつかグランドに戻ってきて欲しい。そう思っている人間は多いし、口に出すのは簡単だけれど、そのためには彼自身がどれだけの苦難を乗り越えないといけないのかを考えると、重い気分にしかならない。
それでも、この甲子園にいる人たち、かつてスーパースター清原に力を与えられた人たちは、願っているだろう。
弱さに殺されず、生きて戻ってきて欲しい、と。
甲子園の青い空の下で、もう一度、彼を見せてくれと祈らずにはいられなかった。