2019年1月5日号。<東良美季新連載 プロローグは勝谷との居酒屋談義から>。
おはようございます。ヨロンです。
正月も、もうそろそろ終わり。Uターンラッシュは3日の午後がピークだったようです。
「カーナリズム」というサイトがあります。自動車関連のニュースを掲載していて、読みやすくなかなか充実しています。こちらで渋滞予測や回避方法などもわかりやすく掲載しているので、自動車で帰省する方は参考にしてみても良いかもしれません。
【2018~2019 年末年始】渋滞予測・混雑日・混雑する道路|渋滞回避方法も
https://matome.response.jp/articles/2215
今更ですが、ラッシュは現在解消状態に向かっていて、明日は余り混雑はなさそうです。もっと早く紹介できていればよかったですね。すみません。
この土日は、まだ少し正月気分も残りますが、今後も土日は今までと同じように柔らかめのテーマを最初にお送りしようと考えています。
昨日、『xxな日々』の部分が『??な日々。』となっていた方も多かったのではないでしょうか。実は、この「××」は、正確には「バツバツ」なのですが、これをそのまま変換すると機種依存文字になって、環境によっては文字化けしてしまうことがあります。昨日は、間違えて機種依存文字を使ってしまいました。通常は「××」(乗算記号)「xx」(エックス)を使いますが、実際にはどう書けば良いのか、勝谷さんに聞き忘れました。基本は乗算記号だと思いますが。
実は以前、この「バツバツな日々」について、勝谷さんに「チョメチョメな日々」と言ったら、シレッと「バツバツだよ」と言われたことがあります。
私が「チョメチョメ」と言ってしまったのは訳があり、38年ほど前に「山城新伍のアイ・アイゲーム」という番組でバイトしていたことによります。名高達郎、クロード・チアリ、芹沢博文(将棋棋士)、中尾ミエ、せんだみつお、高見知佳といったレギュラー陣に、アシスタントの川島なお美(当時大学生)を擁したクイズ番組で、結構視聴率も取れていました。このとき、番組で山城新伍が言っていたのが「チョメチョメ」で、かなり流行りました。まだそのときのことが記憶にあったんですね。検索したら、なんと映像が出てきました。
https://www.dailymotion.com/video/xah354
これを懐かしいと思う人がいるかなあ。
今日から、東良さんの連載を新たに始めます。今まで、週報迂闊屋でかなり濃い昭和AV史を書いていただき、昨年の勝谷入院後は勝谷さんとの出会いや追悼文などを書いてもらいました。勝谷さんが「日本一の書き手」と絶賛しているために、本人は書きづらかったところもあるかと思いますが、「もっと読みたい」と継続を望む声が多く、今回お願いしたところ快諾をいただきました。内容はおまかせしているので、私も楽しみにしています。
今回はプロローグといった内容になります。
新連載のための助走・その1
東良美季(作家)
僕のパーソナル・コンピュータ、Apple「iMac」のハードディスクには、「世論社」というフォルダがある。その中にはさらに、土曜日に配信される〈週報『迂闊屋』〉に5年にわたり連載していた「世論社通信」のフォルダもあるわけだが、その他にも「長野10月革命」というものがあったり、「Facebookページ」なんてのもある。
「長野10月革命」というのは昨年12月15日の「世論社通信、再び。」にも書いたけれど、2013年の6月からわずか4カ月だったが、僕が世論社の社員として働いていたときに編集・制作した単行本である。著者はジャーナリストで元読売新聞ベルリン特派員、木佐芳男さん。正式なタイトルは『長野10月革命 ネット選挙は2000年にはじまった 』 https://www.amazon.co.jp/dp/4907338023 という。
ヨロンさんも何度か書いているが、2000年に田中康夫さんが長野県知事選挙に出馬することになり、勝谷誠彦と、まだ高橋ヨロンではなかった頃の高橋茂が知り合うきっかけになった。木佐さんもキャリアのスタートが読売新聞長野支局ということから、その選挙戦を密着して描いたノンフィクションである。興味がある人は是非読んでみてください。僕が作った本だからという意味ではなく、実に面白い読み物なんです。
「Facebookページ」というのは、Facebookには今でも勝谷誠彦のページがあり、2013年から2014年にかけて、『勝谷誠彦の××な日々。』の内容を紹介する、「チョイ見せ」というのをやっていた。新規の読者を獲得するために始めたのだとは思うが、なぜやめてしまったのかはもう覚えていない。
そしてもうひとつ、「週報『迂闊屋』」と題されたフォルダがあった。何だろう? と思って開いてみると、そこには2013年の6月22日から翌月、7月6日にかけての原稿が3本収められていた。自分で書いたものだがまったく記憶になかった。6月22日のものを開くと「ウカツな日々。」というタイトルに続き、〈×月×日「カツヤの青春物語」四ッ谷『酒肴 味』にて〉とある。
思い出した。勝谷が四ッ谷のしんみち通りに『味』という小料理屋があるのを見つけた。そして「店名が〈味〉だよ、〈味〉って名乗るくらいだから不味いわけがないよね」と飲みに誘ったのだ。そして僕は世論社で編集者をやると同時に、ヨロン社長から「これからは〈週報『迂闊屋』〉もトーラさんが書いてね」と言われていた。そこでフツーに飲んでも仕方ない。ココはネタにさせてもらおうとレコーダーを廻したのだ。以下、もう覚えてる人もいないと思うので引用してみる。
「で、結局この『ウカツな日々。』はトーラさんが書くことになったんだよね?」
──そうです。よろしくお願いします。
「第1回の今号は何を書くの。とりあえずトーラさんの自己紹介でもしておきます?」
──まあ、それも含めて僕とカツヤさんの出会いから始めてみようかなと。
「正確には『すれ違い』だけどね」
──本当の出会いについてはカツヤさんが解説を書いてくださっている、拙著『猫の神様』(講談社文庫 http://amzn.to/Qj6PLa )のあとがきをお読みください。
「さりげなく宣伝しましたね(笑)」
──すみません、あまり売れてないみたいなんで(涙)。で、そのすれ違いの話なんですが、昔々、僕が白夜書房という出版社で『ボディプレス』という雑誌を作っていたころ、同じ会社から『元気マガジン』という風俗情報誌が出ていて、カツヤさんはライターとしてそこに出入りしていた。知り合ってはいないんだけど、隣の机だったから、絶対に顔は合わせてるはずなんですね。
「1984年くらいでしょう、本当に大昔だ(笑)。私はまだ早稲田の学生だった」
──それをお聞きしたかったんですよ。カツヤさんは三尋狂人(みひろ・くると)というペンネームで、その業界では既に有名人だった。学生のアルバイト気分ではなかったですよね。
「うん。最初からプロのライターという意識だった。名刺作りましたから。当時は名刺も高くてね。だから本気でお金を稼ごうと思ったし、実際に儲かってましたから」
──でも早稲田入学当初は、平岡篤頼先生に師事して真面目に文学を志していたんでしょう?
「先生には申し訳ないけど、一瞬にして吹き飛びました(笑)。だってそうでしょう、19才ですよ。原稿書いてお金をもらえて、しかも風俗ライターだからキレイなオネエチャンたちともお近づきになれる。最高の商売だと思った」
──大学に入ってすぐプロのライターになろうと思ったんですか。
「そうです。4月に入学して、5月か6月には始めてた。というのは日記にも書いてるけど僕は子どもの頃から学習障害児だったでしょう? 教室で前向いて座ってることが出来ない、先生の話が耳に入らない。だから灘でも落ちこぼれだったわけだけど、ところが大学生になったら社会的にも不適合だということが判ってきた。アルバイトを色々と始めるんだけれども、人間関係が構築出来ないわけ」
──バイトは何をやったんですか?
「色々やりましたよ。だけど全部ダメ。続かないんだ。家庭教師なんて3日ともたないんだから。生徒のデキが悪いと『何ンでこんなバカをこの俺様が教えなきゃならない!』って思っちゃう(笑)」
──教えられる方も災難だな(涙)。だけど風俗ライターなら出来たと。
「そうそう、他に唯一続いたのがいわゆるガテン系の肉体労働ですよ。トーラさんも判ると思うけど、ライターもしょせんは肉体労働じゃないですか。だから出来た。その辺は今も全然変わってないですね。毎朝日記を配信するなんて体力勝負以外の何物でもないから・・・ところでこういう話がずっと続くの?」
──まあ、しばらくは続けますが、いつまでもオジサン二人の昔話をしてもナニなので、読者の皆さんから質問を募集しようかと。
「質問?」
──ええ、カツヤさんに対しての質問・疑問・ご意見、それに答えて頂くと。人生相談なんてのもイイですね。
「人生相談! あんまり他人の人生には興味ないんだけどなあ」
──まあまあ、そうおっしゃらずに。今東光和尚には『極道辻説法』があり、開高健さんには『風に訊け』という名著があります。文豪が必ず通る道ですから。
「うーん」
最後に<というワケで読者の皆さんの「質問・疑問・ご意見」お待ちしております。>という一文があるが、結局この「人生相談」はやった記憶がない。文章も残っていない。勝谷がやりたくないと言ったのか、あるいは「相談」そのものが来なかったのか、覚えていない。<「カツヤの青春物語」はもうしばらく続きます。>とある。
そして翌週の2013年の6月29日、〈ウカツな日々。×月×日「カツヤの青春物語」その2〉に続く。
(カツヤとトーラの会話、先週の続き)
──19才で大学に入ったということは、1年浪人したわけですよね。
「そうです。そもそも私のような天才がなぜ現役で合格出来なかったかというと、僕らは共通一次第一世代(注・1979年開始)なわけです。突然あんな海のものとも山のものともつかない試験を受けさせられて通るはずがない」
──受かった人もいるので「通るはずがない」というのはちょっと(涙)。ただまあ、突然教科が増えて大変だったのは確かですよね。
「いわゆる〈5教科10科目1000点満点〉時代ですよ。後に〈5教科5科目800点満点〉になるのかな(注・1987年より)」
──社会2科目に理科2科目でしたっけ。「物理Ⅰ」「化学Ⅰ」「生物Ⅰ」「地学Ⅰ」のいずれかから2科目選べって、今考えると拷問だな(涙)。
「でしょう? しかも僕は文系のくせに親が医者なもんだから医学部を目指した。ただその年、筑波大学と佐賀医大と滋賀大学、この三校が画期的な方式を取ったんです。今でいうAO入試みたいなもので、二次試験は面接小論文だけ、と発表した」
──共通一次はマークシート方式だから、「大学入試を○×でやるのか!」という批判があったんですよね。
「そう。要は共通一次で倍率3倍くらいまでの足切りをして、あとは小論文で合否を決めると。『これぞオレのための制度だ!』と思ったね」
──灘高時代から詩に小説に、文章を極めていたカツヤ少年にとって、そんなもん赤子の手をひねるようなものだト。
「しかも筑波なんて小論文の試験時間が6時間だっていう。6時間にわたって文章を書き続けられる高校生なんて、全国見渡してもオレ以外いないだろうと。だから共通一次を通った段階で『もう受かった』と思って毎日酒飲んで過ごしてた。ところがいざ二次試験に行って問題用紙を開くと、化学方程式と数学の数式がズラーッと並んでる。つまり小論文という名の理系総合問題だったわけです。詐欺ですよ、あれは(涙)。結局僕が書けたのは最後の『私と医学』というテーマの300字の作文だけ。途中退席も出来ないから、6時間ずーっと机に突っ伏して寝てた」
──途中退席しないのがカツヤさんの真面目さだね。ボクだったら泣きながら帰っちゃうな(笑)。
「僕だって帰ればよかったよ。だって終わってから、その採点を見たうえで面接があるわけ。ズラリと並んでいる教授たちが、僕の顔と点数を見比べてクスッと笑いやがった。『理科、苦手だった?』だって。見りゃわかるだろーが。見事玉砕ですよ」
──それで一浪すると。浪人生活は地元尼ヶ崎ですか。
「自宅で、いわゆる宅浪です。しゃらくさいから予備校なんぞ行かず、NHKの通信高校講座で勉強した。というのは共通一次って、高校で習う範囲以外の問題は出さないという決まりがあったから。高校の勉強さえしっかりやり直せばどこでも受かるはずだと、実に合理的な受験勉強です」
──で、一年後、早稲田大学第一文学部に見事合格するわけですが、けれど前回のお話にあったように、入学してひと月も経たないうちに風俗ライターになってしまう。そこには何かキッカケがあったんでしょう?
「それを話すと長くなる(笑)。まず、ウチの親は僕が東大に入ると信じて疑わなかった」
──親というのは例の「ママ」ですか?
「そうです。あの『ママ。』です」
──熱心な読者の方はおわかりでしょうが、「ママ」を知らない方は、カツヤさんの小説集『平壌で朝食を。』(光文社文庫 http://amzn.to/mmTqyr )をお読みください。
「ママはもう、『ウチのボクちゃんは東大生になるんだから』と、御茶ノ水駅前の一等地に学生には分不相応なワンルーム・マンションを借りるわけです。家賃8万円だったかなあ、1980年代の初めにこれは贅沢だった」
──そうですね、当時の大学生と言えば4畳半のアパートで家賃が1万5千円前後が相場かな。中には3畳間で8000円なんて物件もあった。
「ところが東大はちょっとした事故があって落ち、他に受かった慶応とかそういうところはすべて蹴って、小説家になりたいがために早稲田の文学部に行ったらママが激怒した。それで仕送りを止められるわけです」
──ハア、なるほど。他の大学も受かったけど敢えて無頼な早稲田を選んだわけですね。
「そうですよ。受けたところは全部通ったんだから。ま、東大文Ⅲだけは不慮の事故で落ちましたけどね」
──さっきから事故、事故とおっしゃいますけど何があったんです?
「あのね、トーラさん。ボクは自慢じゃないけど最後の河合塾東大オープン模試、全国で25番だったんですよ。落ちるわけないじゃないですか!」
──でも落ちたんでしょ。
「だから事故なんですって。まあ、そこを語り始めると長くなるので割愛しますが。ママに仕送り止められて、さりとて月8万の家賃は払っていかなきゃならず、しかも前回言ったようにバイトは何をしても続かない。もう、メシも食えなくてねえ。腹が減って腹が減って。で、何するかというと、早稲田の学食行ってジーッと待ってる。すると女子学生なんて定食のライス残したりするじゃないですか、それを目ざとく見つけて『それ、もらっていい?』って。チクワの磯辺揚げが70円だったから、それだけ自分で買っておかずにして、女の子の残したライス食って。体重が45キロまで落ちてねえ(しくしく)」
また最後に<というワケでカツヤ青年の運命はいかに? 次回に続きます。読者の皆さんの「質問・疑問・ご意見・人生相談」も引き続きお待ちしております。>という文言があって終わる。さて、何だってこの対談原稿を発掘して再録したかというと、本年より始まる新連載の大いなる(?)助走なワケです。
勝谷誠彦が亡くなって、この有料配信メールも新体制になりました。そこでヨロンさんからは「トーラさんには〈週末コラム〉をお願いします」と言われた。毎週土曜日か日曜日に配信されることになると思います。さて、どんな内容になるかに関してはまた来週(続く)。